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「6+7=13」はどうやって答えを求めますか? [教室]

「6+7=13」はどうやって答えを求めますか?
1年生になったばかり,算数で出会うはじめのハードルの1つが「繰り上がり」でしょう。
2年生以上の子どもたちは,そのハードルをすでに全員クリアしてきているわけですが,
実は,その越え方には違いがあります。

①「6を5と1,7を5と2に分け,5と5で10,1と2で3,10 と3で13」
②「6を3と3に分け,7と3で10,10と3で13」
③「7を3と4に分け,6と4で10,10と3で13

主な考え方は3通りになると思いますが,この中からどの方法を選択し,今後使ってい
くのかは,合理的に考え決めておかなければなりません。
(これらの違いとどの考え方が合理的か腑に落ちて理解し、自ら選択する。)
つまり「正確であること。簡単であること。早いこと。」が計算で求められているとすれば,
それに照らしてやり方を決めなければなりません。

そうして考えてみると,①の方法は,分ける手順が1回,足す手順が1回,他のふたつより多いので,
ミスの可能性が増し,時間も多くかかってしまいます。

それでは②と③ではどちらが使いやすい考え方でしょう?
②を選んだ子どもに理由を聞いたところ「小さい数を分けた方が考えやすい。」と答えてくれました。
それは反対に「大きい数の方があといくつで10になるか考えるのが早い」ということとも言えるでしょう。
また「小さい数の方を分ける」というルールを決めることで,どちらの数を分けたらよいか迷うことが無くなります。そういったわけで,②の方法を選択し使っていくことが一番合理的だと考えられます。
 
工場の生産の手順,医者の手術の手順(https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009013551SC000/index.html),
消防団の一員として有事の時の行動の基準,家事の手順等々・・・
1年生の算数の中にも一生涯にわたって使う「考え方」の基本が入っています。
算数で育てる「学力」とは,答えを導き出す方法を知ることだけでなく,
課題解決のためのより合理的な方法を考え選択する力であると思います。
算数の時間「できる」ことだけを求めず,「どれだけ考えられたか」に重きを置いて
指導していきたいと思っています。

さて、1年生の時、①を選択する段階(5のかんづめ)でとどまっているときに
例えば100マス計算やフラッシュカードに取り組まされたらどうでしょう?
100マス計算はスピードが求められます。
すると、②の考え方を知らずに一足飛びに計算の結果を記憶することになります。
つまり、パパッと「6+7=13」と思考を経ずに答えを出すようになるのです。
最も重要な「合理的な考え方」が置き去りにされ
「できる」しかも「はやくできる」ことを追求するようになるのです。

もっとも合理的な方法だと自分で考え選び取れるようになってからでないと
記憶系の(スピードを重視した)計算トレーニングは危険だと思うのです。
かけ算はともかく、足し算では百ます計算はどうしても必要なものとは考えていません。


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3学期の目標 [教室]

クラスで
3学期の目標を立てた日のある子どもの感想・・・


みんなきょうりょくできそうなよかん


みんななかよくできそうなよかん


みんなあいさつができるよかん



みんなけんかをしなくなるよかん


みんなやるきがでるよかん

僕もそんな予感がします^^
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道徳の授業・・・ [教室]

今日は道徳で
「まかぬ種は生えぬ」ということわざについて話し合いました。

この言葉を聞いてイメージしたことを自由に話し合ったのですが
おもわず「うまい!」と膝をうったひとこと

「まいた種には水をやらないと・・・」

いいこと言いますね~S君

で、このクラスの格言
「まいた種には水をやれ!」
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ミラクルクエスチョン [教室]

「3学期はどんなクラスにしたいですか?」

「なかのいいクラス!」
「勉強の出来るクラス!」
「楽しいクラス!」
「けじめのあるクラス!」
「協力するクラス!」
「人の話が聞けるクラス!」
「元気なクラス!」
・・・・・・


「では今晩、奇跡が起こって、みんなが考えたこのクラスがぜ~んぶかなったとしたら・・・ 明日学校に来て『かなった』ということがどういうことからわかりますか?」

3学期、始まっています^^
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あけましておめでとうございます [教室]

nenga2010.jpg

あけましておめでとうございます

クラスの子どもたちの絵で年賀状を作ってみました。
自由に画用紙の上をクレヨンで(ぐるぐるぐる~っと)泳ぎ回ったあと、好きな絵の具で色をつけていきました。


鑑賞をしたとき、
「~ちゃんの絵はおなかの赤ちゃんに見える」
そんなことを言った子どもがいました。


この葉書を作るときに、作品を
スキャナーで取り込んだのですが、
キャノンの複合機。
そこでびっくりすることが・・・
その複合機、写真のカテゴリーを自動で判断するんですね。
「おなかの赤ちゃんに見える」と言われた作品、
それだけが

「人物」

にカテゴライズされたのでした。

さて、どの作品が、「人物」に見えますか?
ロールシャッハみたいですね。





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学校の目的 [教室]

学校にどうしていかなければならないのでしょう。
いじめっ子のいる学校に行かなければならない子どももいるでしょう。
勉強がわからず、つらい子どももいるでしょう。

私自身、いじめられたこともありますし
勉強がよくわからないでつらかったこともありました。
厳しい学校の先生が怖くて行きたくなかったこともありました。

だからそんなときは
「何で学校なんてあるんだ」
と、恨めしく思ったことが何度もありました。

では、何で学校はあるのでしょう。
私がその答えとして一番腑に落ちたのは
大江健三郎の「自分の木の下で」でした。

この本で説明される「学校の目的」は
アドラー心理学で言うところの「共同体感覚」ではないかと思います。

学校の目的がふっとわかってくると
子どもたちに何をどのように伝えていったらいいのかが
とてもよくわかるような気がします。
そしてそれがしっかりしていると
ぶれないのでしょう。

教師たるもの、学校の目的を
子どもたちにわかるように説明できなければ
あるいは
授業を通してそれが感じられるようにしなければ
いけないなぁと思います。

今度もう少しじっくり考えて見たいと思います。






小さなおくりもの [教室]

今日学校に行くと、
誕生日兼、クリスマスプレゼントが
クラスの子どもから届いた。

yamane.jpg

小さなヤマネが二匹
フェルトでできている。
二人の子どもの手作りだ。

ありがとう!

嬉しい~♪


手のひらにのせると、そこからほんのり温かい。







いい話~課題の分離 [教室]

特別支援学級の子どもが、全校郵便の配達をしてくれる。
特別支援教室へ葉書をもらいに行き、ポストに投函すると
相手のクラスまで届けてくれるのだ。

私のクラスの一人が葉書を二枚出した。

相手は同じクラスの仲のいい友達である。

しかし内容は深刻だった。
特別支援学級の子どもたちではなく、支援学級担任が直接私に届けてくれた。
「ちょっと内容が内容なので、先生に見せてからと思って。」

仲の良かった二人からいじめられている。 あなたのことは好きなのに、どうして二人になるといじめるの? もとのように仲良くなりたい。


私は書いた本人を呼び、尋ねた。
「悲しいことがあるみたいだね。このことを解決するのに、先生の手助けがいるかな?それとも、このまま葉書を渡して、自分で問題を解決してみる?」
すると
「二人に葉書を渡してみて、もしもうまくいかなかったら、先生に言います。」
と答えてくれた。
「よく、正直に自分の気持ちを書いたね。とても勇気があると思います。それに先生の手は借りないで、自分でやってみようとしている。先生はとても嬉しいです。」
というと、彼女はこらえていた大粒の涙をこぼした。
「もう悲しいことじゃないと思うよ。解決できるようにがんばろうとしているんだから。きっともとのような仲良しになるよ。」

もちろん問題は、その日のうちに解決した。
「先生、もうAちゃんもBちゃんも優しくしてくれるから大丈夫。」

明日にでも、AちゃんBちゃんを勇気づけよう。
友達の信頼の葉書に誠実に応えたふたりを心から尊敬する。
たいしたものだ・・・

教員やってて良かったぁ~

感覚タイプ~なぜ下村式を選ぶのか。 [教室]

私は漢字学習に下村式の「漢字の本」をつかっている。その理由として
「漢字の本」は子どもの認知の仕方「視覚」「聴覚」「感覚運動」のすべてに
うまく働きかけられるように構成されているからである。
そして、だからこそ、子どもたちはこの本で学習することを「楽しい」と感じるし
漢字が好きになる。



アルフレッド・アドラーは「人間知の心理学」(1926)の中で
子どもがそれを用いて周りの世界を征服しようとする器官のうち、外界と切り離すことのできない関係を作り出すのは、主として感覚器官である。これが世界像を構築する助けとなる。(『人間知の心理学』アルフレッド・アドラー著 岸見一郎訳 2008 アルテ)

との書き出しで、人間が外界を認識する3つのタイプ「視覚タイプ」「聴覚タイプ」「感覚運動タイプ」
について言及している。今でこそ、これらの認識タイプについては例えばMI理論などの学習心理学
、例えばNLP、といった様々な心理学で常識的にとらえられているが、この認識タイプを初めて理論化したのは
アドラーに他ならない。
そして私が授業で用いる「漢字の本」は漢字の成り立ちを視覚的に(象形文字)とらえられるように示し、
書き順を、独特な言い方で唱えながら書かせることで聴覚的にも漢字を覚えられるようにしている。
もちろん、見ながら、唱えながら、書くことによって感覚運動タイプの子どもにも配慮されている。
つまり、どの子どもの感覚タイプにも応えられるような構成になっているのだ。
例えば「豆」をどう唱えるかというと「いちくちそいち」と唱える。
これを単なる書き順でいえば「イチ、ニ、サーン、シイ、ゴー、ロク、シチ」である。
これでは何の漢字を書いているのかは聴覚的には記憶できない。
「いちくちそいち」ならば聴覚的にも「豆」しかありえない。
たぶんアドラーの理論などは考えずに、覚えやすい方法を実践の中から編み出したのだとは思う。
しかし、この本はアドラーのフィルターを通してみても子どもの立場に立った学習書だと思う。

例文や、熟語が丸ゴシックになっている。教科書体に直せないものか問い合わせたところ
検討はしているそうである。しかし、子どもたちに漢字に親しんでほしいという思いから
あえて丸ゴシックを使っているそうである。学習書と言うより、絵本として読んでほしいということだ。






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跳び箱を跳ぼう [教室]

JR060.jpg
 
跳び箱が跳べるか否かは、メンタルな面でほとんど決まる。
目の前に迫り来る四角く茶色い物体を跳び越える・・・。
がんばろうと思って、助走をつければつけるほど恐怖心は高まる。

跳べない子どもが3人いた。
もっとも跳べない子どもを呼んだ。
「まっすぐ立ってみて・・・らくーに目をつぶって、そうそうそうそう
先生が後ろでこう、ちゃんと支えてるから大丈夫、そう、後ろに倒れようと思わなくても
すーっと、後ろに倒れるでしょう。そうそう、上手だね・・・」
教育催眠の指導をうけ、跳び箱の授業で使ってみたのである。
後倒を2,3回行うと、だいぶ力が抜けた。
「そうそう、上手だね。もうらくーに力が抜けてるよ。目を開けてみて。
ほら跳び箱が見えるでしょう。もう大丈夫、とーんっと簡単に跳べるよ。
踏切をトーンとね。」
もう後、一言二言、言ってから、跳ばせてみた。
おしりをポーンとたたくと、すっと跳べた。
毎回どっかりと、跳び箱に腰を下ろしていた子どもが
いとも簡単に跳ぶことができた。
「先生、こんどはケツたたかないで!」
「先生、今度は4段にしてみて!」
その子どもにつれて、他の二人も、どんどん跳んでしまう。
3人のちょっと体格のいい男の子たちが抱き合って喜んだ。

できない、という思い込みがどれだけブレーキになるのか目の当たりにした。
催眠の教育現場での応用が有効であると感じた。

師匠!できました!






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