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煙草と眼鏡 [アドラー心理学]

そういえば父が亡くなったとき、
棺に煙草と眼鏡を入れたのだったか・・・眼鏡は金属だからダメと言われたのだったか・・・。

今日から煙草と眼鏡のことについて書きたいなと思っています。

まずは、煙草

先日、地域の保育園児と小学生のこどもとその親の集まりがありました。
たった4世帯、ですが、こどもは総勢10人、はじめは1台あったDSに群がっていた
子どもたちも、次第に集団で遊ぶようになり、賑やかで楽しい午後でした。
大人は大人で、食事をしながらの雑談でそこで出てきた話題が「禁煙」
私以外の2人の父親は両方とも喫煙者、
ときどき「ちょっと失礼」などと言いながら席を外し、外に出て行きます。
一人は学校の教員で、学校での敷地内禁煙のことが話題に。
敷地内禁煙で、勤務時間中に職場を離れてはいけないとなれば行き場がなくなりますね。
私も7年ほど前までは超がつくほどのヘビースモーカー
まだ火がついているのに次の煙草に火をつける「チェーンスモーカー」状態でした。
しかし7年前のある日、きっぱりとやめ、今まで禁煙は続いています。というより
煙草の煙が苦手な非喫煙者になりました。
禁煙箇所が次第に増え、学校の敷地内禁煙が当たり前になってきて
あのとき本当にやめていてよかったと思っています。


煙草をやめるきっかけになった本が


















いやぁ、あの後こんなにシリーズが出たんですね。女性のためもありました。
私が読んだのは一番上の一冊。900円ほどでやめられたことになります。
この本に出会ったのが近所のコンビニ(目にした方もいるのでは?)
タイトルにある「読むだけで『絶対』やめられる」の言葉が目に飛び込んできました。
「まさか・・・絶対なんて・・・」ちょっとその本に対し挑戦的な気分がわいてきました。
「そう簡単にやめさせることなんかできないぞ」

こんな思いでその本を手にとりました。

学年最後の授業参観 [教室]

学年最後の授業参観が終わりました。
つい最近学校に一台導入された電子黒板
使ってみました~

セットアップもまだされていない電子黒板と格闘して
何とか使える状態に・・・
よく探せば、教員のネットワークで、いろいろと授業用のソフトも開発されているとは聞きますが、
探すより作った方が早いと思い、パワーポイントで「箱の形」のプレゼンを作りました。

やはり、(特に形の学習では)視覚に訴えることの有効性と
映った画面にどんどん書き込める良さを感じました。


また、課題としては
じっくりと考えたり、立ち止まる時間を意識的にもうけないと、
授業がどんどん流れて言ってしまう、わかったつもりにさせてしまう危険性があると思いました。
また、やはり大きさは思った以上に小さく、メインとして使う訳にはいかないですし、
もっとも避けたいのが、電子黒板だけで授業を進め、電子黒板に向かって授業をしてしまうことでしょうか?

これから、電子黒板用のソフトを調べて、有効に活用していきたいと思っています。

ダメ出し・・・ [アドラー心理学]

今日はダメだしの怖さについて

すべてのダメ出しを否定するわけではありません。
いざというときには、その子どもに自分の否定的な部分にも
向き合ってもらわなければならないときはあると思います。
こういう場合の正対のさせ方については時を改めて考えたいと思いますが
「何度言ったらわかるの!」型のダメ出しは
自分でもわかっているけれどやめられない、止められない状態に
オートマチックになってしまっているのかもしれません。
このオートマチックな状態に陥るからくりについて考えてみたいと思います。


「ほら、また散らかして」
「ほら、また間違えた」
「何でいつもいつも遅れるの」
「ダメじゃない」
「愚図ね」
「だらしないなぁ」
このようなダメ出しが親や教師からもしもされているとしたら、
これらはその子どもにとっての暗示に他なりません。
繰り返されるたびに
「また散らかす」
「また間違える」
「いつも遅れる」
「ダメ」
「愚図」
「だらしない」
というメッセージがその子どもに届きます。
これらの言葉は、はじめは外から浴びせられるものですが
次第にそれは、内言化されていきます。
内言とは、頻繁に自分に対して自分で語りかける言葉です。
「また散らかした」
「また間違えた」
「いつも遅れるんだ」
「ダメ」
「愚図」
「だらしねーなぁ」
こんな言葉をいつもいつも自分に言い聞かせてしまうようになるのです。
すると「そうなりたくない」のに、無意識的にそういう言葉に合わせた自分になっていくのです。
自分で自分に、無意識的に暗示をかけてしまうので、これほど強力なものはありません。

「クレヨンしんちゃん」のエンディングテーマで「ダメダメダメダメ・・・・」
っていうのが確かありましたね。


今日はここまで・・・


廊下を走るな! [アドラー心理学]

永遠の課題(笑)

「廊下を走るな!」


否定文の目標は効果がないといいますが
効果がないばかりか
「廊下を走る」までがインプットされ
「な!」は省略されてしまうようです。
つまり
「廊下を走る」というほうがイメージされる。
結果として廊下を走ってしまう。
「廊下を走れ!」と言っているのと同じ結果になってしまうのです。
(ルールを破って思いっきり走る快感から走る場合もあるのでしょうが)
せめて廊下を走らないようにしたいのならば
「廊下は静かに歩きましょう・・・」と声をかけた方が良さそうです。
(もちろんすぐにその行動を止めたいときは別ですが)

私は繰り返される否定文を使った指示は、
不適切な行動をかえって起こさせてしまう「暗示」として働くと思っています。
「~してはいけない」「~してはいけない」
が繰り返されると、してはいけない行動がかえって増えてしまうのではないか
増えないまでも、いざというときにそういう行動が起こってしまうのではないかと思うのです。

「~さん、事故起こさないでくださいね~。気をつけてくださいね~」
そんな声かけをしょっちゅうされたら、なんか事故を起こしてしまいそうで怖くありませんか?
声をかける本人は、もちろん心配してのことだと思いますが、
無邪気に逆の暗示をかけていることに気づかずにいるのは恐ろしいことでもあります。

車酔いもそうですね。
「酔いやすい人~前の席に来てくださいね~♪」
これだけでアウトです。
これは否定文ではありませんが、酔わないように、よかれと思っての配慮かもしれませんが
「う~わたしは酔いやすい~」という暗示が入ってしまいます。

いわゆる「ダメ出し」もそう・・・
「ダメだし」についてはまた後日書きますね。


いいね!横並び [アドラー心理学]

月曜日、今日から早速、「横並び」使ってみました。
先週土曜日、シェルパ斉藤氏の講演会で聞いた横並びの効用
教室で実感です。

横並びの良さのもう一つの側面にも
ある子どもと歩きながら話していて気づきました。
それは
「横並びだと、身体的距離を『0』にできる。」
ということです。身体的距離と親密さの相関は心理学者ハルの実験が有名ですが
「相手との距離が近いほど親密度が上がる」というものです。

正面から向かい合っていると、ある程度以上は近づけません。
でも、横並びだと、たとえ『0』つまり袖スリ合う距離になっても
不自然でなく、しかも相手の存在をとても近く感じることができます。

私は日直の子どもと差し向かいで給食を食べるようにしているのですが
そのときにもまして、横並びで話をすると、とても話しやすいことに気づきました。
それは、子どもにとっても同じなのでしょう。

「話をするときは正面から目を見て・・・」
この常識に縛られないで、ちょっと横並び、試してみるといいと思います。

ご家庭でもドウゾ~

事例研究会 [アドラー心理学]

今日は、教育相談学会で事例研究会がありました。
私も1年間の子どもたちとの関わりについて発表させてもらいました。
この時期に自分の1年間の取り組みを客観的に見てもらうことは
成果と課題がはっきりとわかりこれからの励みと自信につながります。

今日はスーパーバイザーに教育催眠を指導していただいているK先生にきていただき
車での送り迎えもさせてもらいました。これがゆっくりお話しが聞けるチャンス。

40年も前のエンカウンターのお話も聞くことができました。
ついこの間のことのようにお話しされる先生を見て
40年なんて、あっという間なんだなぁと思いました。
ロジャーズの考えをそのまま教育現場に持ち込むのは無理がありますが、
やはり、学びの主体を子どもとした考えは、今では当然のことですし
いつも目指していたい目標でもあります。
ロジェリアンはロジャーズがアドラーから少なからず影響を受けていることを
あまり知らないと思いますが、特に、K先生からうかがうロジャーズの理論は
アドラーのそれとかなり重なるところがあります。
K先生、相当のお年ですが、まだまだ、長生きしていただき、たくさん学ばせてもらいたいと思っています。
それにしても、今日の研究会での先生の迫力はちょっと信じがたいものがありました。


朝、画眉(がび)鳥がさえずりました。
美しい鳴き声だけど外来種。
春の訪れは、やっぱりウグイスでないとですね。
http://toolkit.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2008/02/26/0802261.jpg


シェルパ斉藤氏講演と、環境教育事例発表 [教室]

今日は脱温暖化セミナーでシェルパ斉藤氏の講演会がありました。
二本の足で歩いての世界中を巡る旅は「早い、便利、簡単」の逆の生き方そのものでした。
斉藤氏も自分の家は自分で建てたそうで、自宅併設のカフェに遊びに行きたくなりました。

講演終盤でのサミットへの提言、これが必聴でした。
奥様と二人と犬2匹で散歩されている写真を見ながら

「喧嘩していても横並びで歩いているうちに、自然と仲直りしてしまう。きっと、同じ方向を見て歩いているからでしょう。向かい合ってると、どうしても対決し姿勢なんですね。だから、サミットとかの会議もみんな横一線で歩きながら話し合えば、ポジティブなアイディアを引き出せるんじゃないでしょうか。」

と、お話しされました。そういえば、私がいつも感心させられる私より若い教員(息子の担任)も、子どもとよく横並びで歩きながら話をしています。時には腕を子どもの肩に回して・・・。野球のスポ少でコーチもしているのでそのせいもあるでしょうが、そうやって話すだけで「共通の課題に向かう仲間」っていう感じがしませんか?
「さっきさぁ、あいつに『しねっ』って言ってただろう?あれって、おまえらしくないけど、どうした?」
「うん・・・ついかっとなって・・・」
こんな感じの二人の会話が聞こえてきそうです。
サミットでのお散歩会議の実現は(するといいですが)難しそうですが。
教室ではいただきです。校庭の階段に腰掛けて、ブランコに揺られながら・・・応用もききますね。

講演に続く事例発表は私も10分だけ担当させてもらったのですが、
わざわざ聞きに来てくれたクラスの子どもたちにいいところを見せようと気負ったせいか、ずいぶん緊張してしまいました。でもこんな嬉しいことはありません。子どもたちに、連れてきてくださった親御さんに感謝です。

夜は懐かしい研究の仲間と飲み会。
忙しくも充実した一日でした。



読書感想文はどうして書くのか~2 [教室]

昨年、書きかけ、そのまま放置してしまった読書感想文についての記事にご批判をいただいた。
http://yuukiduke.blog.so-net.ne.jp/2009-11-25

改めて、読書感想文はなぜ書くのか考えてみたい。そして読書感想文コンクールについても
その意義をもう一度考えてみたい。

(私が批判したのは読書感想文やコンクールそのものではなく、イヤイヤ書かされたり参加さ
せられたりし、逆に本嫌いになる子どもが残念ながら少なくないということに対してである。)
http://www.onda-honpo.com/dokkan-sanpi/

では何のために読書感想文コンクールはあるのか? そもそも、読書感想文はどうしてかくのか?


読書感想文の意義

気づきや感動を言語化し書きとめておくことによってそれをいつでも引き出せるようになる。

以前ブログで、スポーツを練習するとき、なぜ言語化するのか云々、
言語化していろいろ説明する必要はないのではないか云々と書いたことがあるが、
その答えと、共通すると考えている。
つまり、言語化することによって、感想文の場合は言語化できない部分まで含めた物語り全体からの感動、
スポーツの場合は言語化できない多くの体全体の動きや感覚、にラベリングができるのではないか
と考えたのである。たとえばそれをクリックすればすべてが再現されるアイコンのような感じだろうか。
読んだ本が自分のものになる、ということである。

子どもたちにはどう伝えよう?
「いくら良い本に出会って感動しても、時間がたてば薄れていってしまいます。でも、感想文にして書いておく
ことによって、いつでもその時の気持ちを思い出し、味わうことができるようになります。一度読んだ本を、何度でも何度でも味わうことができるのです。」
このように伝えたらどうだろう?
本を読んで一度でも感動したことのある子どもなら、腑に落ちてくれるのではないだろうか。
この場合「読書感想文」でなくてもよい。読後の感想を簡単に書くだけでもよいと思う。

ただし、その前提として
本を読み味わい、感動する力が必要である。それをどう育てるかについてはまた改めて考えたい。

感動を誰かに伝えたいと思い伝える。その内発的で自然な行為として。

「ねえ、何々見た?」
「ねえ、何々聞いた?」
「ねえ、何々した?」
「ねえ、何々読んだ?」
「おもしろかったよね~」
「感動したよね~」
「泣けるよね~」

人は放っておいても、必ずコミュニケーションする。
(放っておかないとコミュニケーションしなくなることはある。)
だから本を読み心が動かされれば、必ず誰かに話したくなる。伝えたくなる。
私はこのことをとても大切なことだと思っている。
それだからこそ「読まされる・書かされる」感想文に過剰に批判的になるのかもしれない。
私の記事に批判を寄せてくれたNO NAMEさんのお子さんは、課題図書を何度も繰り返し
読んだそうである。本を読み心が動いた子どもなら、書かされなくても自分から書くだろう。
感想文を「問題」としてとらえるのではなく「チャンス」として考えられるだろう。
そうなれば、自分の思いをどう表現したら相手にうまく伝わるのか考えるだろうし、知りたくなるだろう。

ただ、読書感想文の問題点も同時にここにあるように思う。
つまり、感想文を書く子どもが伝えたい相手は誰なのか?ということである。
「お母さん聞いて」なのか「先生聞いて」なのか「みんな聞いて」なのか。
そこが明確でなければ「伝えたい(=書きたい)」欲求は内発的には生まれない。
伝えたい相手と伝わる相手のズレがはじめから見えていると、書く意欲は生まれない。
良心的なコンクールならば、全員とはいかないまでも、入賞者には選者のコメントがほしい。
受け手のいないボールを投げるのはむなしい。

それはさておき、
ここでも出発点は本を読み、感動する力である。

そしてそれに加えて、感動を言語化し、書く力である。

ここにコンクールの意義がある
どうしたら自分の気持ちにぴったりする表現ができるのか
どうしたら、自分の感動を相手(明確にしたい・・・)に伝えることができるのか
同じ本を読んだ友達はどんな感想を持っているのか
それがコンクールに「参加することでわかる。」


実は参加してもわからない場合が多い。(残念)
子どもたちがほかの友達の作品を読む機会はほとんどない。
同じ本を読んだ子どもが、「あんな風に感じたのか、あんな風に書けば気持ちがうまく伝わるのか。」
と、わかり、感想を交流できる場にコンクールがなっていなければ
残念ながら入選者(選者のバイアスというふるいに残った)中での小さな交流にとどまる。


今回この記事を書きながら、他の方々は、読書感想文についてどう考えているのだろうと思い
上述の読書感想文への賛否(「読書感想文は児童・生徒の読解力と文章作成力向上に役に立つのか?」)やWikipediaをひいてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E6%84%9F%E6%83%B3%E6%96%87
読書感想文は学習指導要領に明確に位置づけられてはいない。このことはWikipediaにも書かれており
感想と意見、事実を明確に分けて論述する能力が小学校5・6年生で求められているが、これは読書感想文と
はねらいが違っている。またWikipediaでは述べられていないが、学習指導要領に、「本を読んで推薦の文章を書くこと」が5・6年生の言語活動として例示されている。この言語活動の根拠は、「登場人物の相互関係や心情、場面についての描写をとらえ、優れた叙述について自分の考えをまとめること。」であり、ここを根拠に、「読書感想文」という言語活動もある程度可能だろう。しかしねらいは自分の考えをまとめそれを例えば推薦文にまとめて、誰か(友人や家族)と交流することである。
1年生から4年生では、「本に親しむ」ことを目的とした活動(例えば本の帯を作る)は教科書にあるが「感想文」としてはない。感想を書いたり話し合うことはあっても、「読書感想文」というジャンルは小学校1~4年では見あたらない。
学習指導要領で小学校全学年を通して一貫して主張されているのは、「本を誰かに紹介する」という「相手意識」である。
課題図書選定の問題等がないわけではないようだ。
読書感想文コンクールをきっかけとして本好きになる子どもも確かにいるのだが、コンクールのあり方やコンクールへの参加のさせ方などの工夫をしなければ、本嫌いを作ってしまうのも一方では事実のようだ。

私はむしろ、小学校低・中学年のうちは(一人一人の発達段階にもよるが)読書日記を読みあったり、本の短い感想を模造紙にどんどん書けるようにしたり、付箋に書いて貼る場所を作ったり、本を読んだ子どもの本音の交流を活発に行い、本好きを増やしたいと思っている。そういった中から、自然と読書感想文が書けるようになり、コンクールにも参加したいという子が出てくればいいと思う。読書感想文コンクールは、子どもたちに紹介はするが、一律に宿題として課すことについては考えなければならないと思っている。

NO NAMEさんのご批判をきっかけに、本を読むこと、その感想を交流すること意義についてより深く考えることができました。改めて感謝申し上げます。








梟の鳴く夜 [教室]

今日は久しぶりに梟の声を聞きました。
かなり太いしっかりした声で、ゴロスケホッホ~♪とやっていて
生き物が動き始めている(春が近づいている)ことを実感しました。

さて、昨日のクラス会議の結果
見事給食の支度から、昼休みまで、時間通りに進めることができました。

さすがみんな!目標達成した記念に、これ、貼るからね~と
「ウンチおじさん」を黒板に貼ると、評価が真っ二つ。
「やったー!」と「えー!?」
「ほかの描いてきてもいいですか?」と聞きに来る子どももいました。

「もちろん!」

20分、しっかり取れた昼休みには
グランドで遊ぶもの、教室でダンスに興じるもの
協力して勝ち得た時間を楽しんでいました。

「目標の一致」が課題解決に不可欠であることを改めて感じました。
明日はどうかな?

クラス会議 [教室]

今日のクラス会議の議題は「昼休みを1時30分から20分間きちんと取るにはどうしたらよいか」でした。いつもは子どもが議題箱に提出するのですが今日は私が議題を出しました。
これがなかなかうまくいかない。
給食のしたく、かたづけ、歯磨き、掃除、連絡帳書き、そして昼休みという流れで
この間1時間、それほど無理はないと思うのですが、
「急がないと、昼休みがまた短くなっちゃうよ!」と追い立てる指導がここの所続き、「みんなで協力して早くして、昼休みをきちんととろう!」と1学期にすでに話し合ったことが、なんとなくルーズになってしまい、下手をすれば昼休み10分、なんてことも・・・。
そこで今日は担任から上のような議題を出させてもらったというわけです。

まず確認したことは、
「みんなは本当に、20分間の昼休みをしっかり取りたいと思っているか?」
です。
本当はゆっくり支度をし、ゆっくり食べ、時間をかけて歯を磨き、のんびりしたいのかもしれません。
でも、学校ではそうすることは残念ながらかないません。
子どもたちは「僕たちは本当に昼休みを20分きちんととりたい」といい
「でも、のんびりしたくもしたいんじゃない?」と聞くと
「休み時間のほうがいい。」と口々に答えました。
担任と、子どもたちの目標を一致させることが大事です。
明日は同じ方向を向いて給食の時間を迎えられそうです。

さて、

話し合った解決策は
「必要以外のことはしゃべらない。」
「時間を決めて、その時間までにいろいろなことをする。」
でした。

私とすれば、配膳の方法や片付けの仕方などにも改善の余地があり、そのあたりにも気づいてほしかったのですが、とにかく今日決まった方法で、明日から一週間は挑戦です。

明日、うまくいったら隠しアイテム「うんちおじさん」のマグネットの登場です。
(子どもたちは、男の子がふざけて描いた「ウンチおじさん」がマグネットになっていることを知りません・・・)
がんばれ!みんな!(日本もね・・・関係ないけど)




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